家族や友人から「あなたのことが心配」と言われて、モヤモヤしたことはないですか。
心配してくれるのは本当にありがたいことなのだけど、なぜかイラっとしてしまったり、負担に感じてしまったり。
そういう私自身、しょっちゅう人の心配をしているではないか。ということは、私も場合によっては相手の負担になっていることがあるのでは?
他人の心配をする時、される時、人はどのような心理になっているのでしょうか。
「他人の心配」は「自分自身の不安」
せっかく前向きに頑張っている時に、「本当に大丈夫なの?」と心配されて、急に不安になってしまうこと、ありますよね。
自立をしている人、または自立をしようとしている人に「あなたのことが心配」と言うことは、場合によっては決断をぶれさせ、自信を失わせてしまうことがあるのだ。
相手のことを信じていないので、相手が本来自分で確立するべきこと、自己肯定感を奪うことになってしまうのである。
「他人の心配」=「優しさ」だと勘違いしてしまうこともあるけど、「心配」の実体は、本当は心配りなどではなく、自分自身の不安なのだと思う。
自分が不安になりたくないというだけ。
「大丈夫?」と聞くのは自分が不安から解消されてラクになるために聞いているのだ。
聞かれた方は心配をかけてしまうのは申し訳ないので「大丈夫だよ」と答えるしかない。
けれど、聞かれた相手に頼れることがない場合は、それこそ「大きなお世話」になってしまう。
相手が正直に「大丈夫じゃない」と言ってくれれば、一緒に解決策を考えることはできる。
けれどそれは、相手のためではなく、自分が安心するためなのだと自覚していた方がいい。
何もできないのならかえって相手の負担になってしまうこともあるので、気をつけたいと思う。
「ネガティブな思考」は伝染する
「心配」=「不安」は、「もしこうなったらどうしよう」というネガティブな思考だ。
人の心配をするということは、そのネガティブな思考を相手に送ることになってしまうのである。
そしてよく人の心配ばかりしている人は、自分も人から心配されると嬉しい傾向にあるように思う。
「よりそって」一緒に心配していると、その時は心地いいと感じるので、心配性な人どうしが仲良くなる。
その結果ネガティブ思考は伝染し、心配はなくならないどころか、心配していなかったことまで心配になり、どんどん大きくなる。
さらに、「こうなってしまうのでは」と思っていることは、現実に引き寄せてしまうこともあるのだ。
まさに「負のスパイラル」だ。
ろくなことにならないので、心配症どうしがつるむのは避けた方がいいのではないかと思うが、これも大きなお世話なのかもしれない(^^;。
相手のことを思った時にできること
と、言いながらも、風月も実際に大切な人がピンチの時はパニくってしまうのだが(^^;。
そんな時はいったん気持ちを落ち着けてから、まずは「相手が今何を必要としているのか」を考えるようにしている。
具体的な解決策やアドバイスを求めているなら、もちろん自分にできることはしたいし、自分が知っていることは伝えたい。
ストレスを発散をしたいのなら、それに付き合うこともできる。
けれど、たいていの場合は自分にできることは何もなく、見守っていることしかできないのだ。
「黙って側にいてくれるだけでいい」「顔を見るだけで安心する」と思えるのは、よほどの信頼関係がある場合だけなのだが、「距離をおきながらもいつも見守ってくれている人」がいるということも、力になるものだ。
いずれにしても、自分にできることはなにもない時、「心配する」「気持ちによりそう」ことは、逆に相手の負担になること、負のスパイラルにおちいる可能性があることは心にとめておきたい。
その上で、「自分にできることがあるのなら頼ってくれると嬉しい」と伝えておくように心がけている。
そしてやるだけのことはやって、どうにもならない不条理にぶちあたった時に「もう~~、聞いてよ!」「とりあえず美味しいもん食べたい!」とストレスを発散するのにつきあってもらえる人がいるというのも、ありがたいことだ。
気をつけたいのは、そのストレス発散が「ネガティブな愚痴」にならないこと。
思うようにならないことを人のせい、環境のせい、世の中のせいにした不平、不満は聞く方も苦痛だし、聞いているうちに一緒になって「負のスパイラル」に陥ってしまうこともある。
自分にとっても相手にとってもいいことはないのである。
では「ポジティブな愚痴ってなんだ?」と言われると難しいのだが、あえて言えば山や海に向かって「ちくしょー!ふざけんなよー!ばっかやろー!!」と叫ぶイメージでしょうか。
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